≪上映会場≫ フォーラム那須塩原 

 那須塩原市豊浦字豊浦12-1 ビバモール那須塩原 内

http://forum-movie.net/nasushiobara   Tel: 0287-60-7227 

10月26日(金)~11月1日(木) 1週間限定

① 11:40~ ② 18:45~

「沖縄スパイ戦史(2018年/日本/114分)

前売り券  \1000

当日券  一般 \1800  学生 \1500  高校生以下 \1000  シニア \1100

 

前売り券の取り扱い店

 


沖縄戦について

 今から73年前、1945年4月、沖縄本島は海を埋めつくすアメリカの戦艦から、「鉄の暴風」と形容されるほど猛烈な砲弾を浴びせられました。「本土決戦」を叫ぶ軍部は徹底抗戦を指示し、日本軍は住民を巻き込みながら南へ南へと撤退し、6月23日、司令官の牛島中将が自決して戦闘は終わりました。青年・壮年の男性はほぼ全員が「防衛召集」されて戦闘に従事し、中学生・女高生も「鉄血勤皇隊」「ひめゆり部隊」として日本軍を支えたことは広く知られています。

 「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という、陣地を死守し、自決した大田海軍少将の打電は有名ですが、戦後、その願いは叶えられず、沖縄は米軍治世下に置かれ、軍事基地と化しました。

 

 「本土決戦」までの時間稼ぎとして戦われたのが沖縄戦でした。「沖縄語」を使うな、など、軍部は住民に疑いの目を向け、「スパイ」として処刑された住民もいます。

 軍にとって戦闘要員でない住民は単なる厄介者だったので、「軍隊は住民を守らんかった」という思いは今でも沖縄の人々には広く共有されています。軍は沖縄諸島に40名を超える陸軍中野学校出身の士官を送り込み、住民を監視し、女性や幼児、老人をマラリヤ蚊の潜む山奥に追いやって多数の死者を出しました。また少年達を組織し、「護郷隊」としてゲリラ戦を行ったのです。住民を組織してのゲリラ戦は実は「本土決戦」でも準備されていたことが明らかになっています。

  

平和の礎(平和祈念公園)に刻まれた、アメリカ兵を含む沖縄戦で亡くなった方々の名前は私たちに何を語っているのでしょうか?